自己紹介
私は1966年4月25日にディートリッヒ・ゲーデとヘルガ・ゲーデの次男として北ドイツの港湾都市ハンブルクで生まれました。星座はおうし座で日本の干支では午(うま)年です。父ディートリッヒは国家公務員で母ヘルガは英語教師をしていました。父は後にドイツテレコムの幹部になりました。両親は音楽家ではありませんでしたが、母はピアノを弾き父はクラシック音楽が大好きでした。我が家には生まれた時からいつも音楽が流れていました。
私は1966年4月25日にディートリッヒ・ゲーデとヘルガ・ゲーデの次男として北ドイツの港湾都市ハンブルクで生まれました。星座はおうし座で日本の干支では午(うま)年です。父ディートリッヒは国家公務員で母ヘルガは英語教師をしていました。父は後にドイツテレコムの幹部になりました。両親は音楽家ではありませんでしたが、母はピアノを弾き父はクラシック音楽が大好きでした。我が家には生まれた時からいつも音楽が流れていました。
3歳年上の兄トーマスが5歳でヴァイオリンを習い始めると、私のすぐ同じことをしたいと思い、2人とも同じ先生に師事しました。1歳年下の弟セバスチャンは大きな弦楽器(チェロ)を与えられ、しばらくして兄トーマスがヴィオラに楽器を変えると、兄弟三人で弦楽トリオを編成しました。
母は私たちをバイリンガルに育てるため家庭内ではいつも英語を話しました。また英国にもしばしば旅行をしました。英国から父が運転するとても小さな車の後部座席に兄弟3人で乗り、隙間という隙間には「Weetabix(ウィータビックス・英国で最も有名な朝食用シリアル)」を詰め込んで、ハンブルクに戻ったものです。当時ウィータビックスはドイツでは入手できなかったのです。私たちの家庭は仲が良く温かく恵まれた家庭でした(今でもそうですが)。
私の両親の教育方針はとても創造的なもので、家族全員で頻繁に討論をしたものです。今でも鮮やかに思い出しますが、ある時私たち兄弟はお菓子を好きなだけ食べたいと両親に頼みました。そうすると両親は私たちの望みを聞き入れ「他の物を食べず、お菓子だけを食べる」ことを許可してくれました。私たちは大喜びでまるで天国にいるように感じたものです。しかしこの喜びは1日か2日で終わり、私たちはお菓子を食べることが嫌になり、他の食べ物を食べたいと両親に懇願することになりました。これは人生についての良い教訓になりました。
両親は私たちが音楽と他の教養とを良いバランスで身に着けてほしいと望みました。そのため私たちはギリシャ語やラテン語のコースのある学校に入学しました。兄弟の中でもっとも成績の良かった兄のトーマスは11歳で国費留学生に選ばれ一般教育修了上級レベル(A-Level)まで英国の学校に在学し、その後イートン校に進みました。私はハンブルクのインターナショナルスクールに2年間通学しました。両親は私たちに音楽家になることを一切求めませんでした。ある時私が毎日ヴァイオリンを練習しなければならないことが嫌になり、ヴァイオリンをやめたいと言い出したことがあります。その時両親は「それではお前のヴァイオリンは私たちが預かって戸棚にしまっておく」と答えたのです。わずか2日後には私はヴァイオリンが恋しくなり戸棚を空けてヴァイオリンを取り出し練習を始めました。その時以来今日まで私がヴァイオリンを弾かない日はありません。
私が小学生のころ私たちは既に弦楽トリオを組み自宅で演奏していましたが、初めて人前で演奏したのはクリスマスのパーティで、人々がとても喜んで拍手をしてくれたことを今でも鮮明に記憶しています。子供ながらに音楽の力を感じました。
少なくとも月に1度は英国に国費留学(イートン校)した兄がイギリスの寮からハンブルクの自宅に戻ってくるので、私たちはいつでも弦楽トリオを組んで演奏することを楽しんでいました。時には学園祭で演奏したり、音楽祭に招かれたりレコーディングをしたりしました。
テレビ・ラジオにも珍しい兄弟3人の弦楽トリオということでずいぶん出演しました。ZDF(第2ドイツテレビ)が私たち兄弟の特別番組を放送したこともありました。
私が高校生の夏休みに兄弟3人でヨーロッパを旅行したことがあります。いわゆる無銭旅行に似たものでしたが、行く先々の街角で演奏をして道行く人から小銭をもらっていました。最終的にハンブルクに戻ってみると、かなりな額のお金が残っていました。
その後、兄トーマスは医学の道に進み、私は16歳でドイツの国内コンクールに優勝しました。そして1986年クラウディオ・アバドの主宰するヨーロッパ・ユースオーケストラに入団しコンサートマスターを務めました。また1990年にはロンドンで行われたカール・フレッシュ国際ヴァイオリンコンクールの受賞者(Prizewinner)に選ばれました。弟のセバスティアンもドイツ国内コンクール優勝しヨーロッパ・ユースオーケストラに入団しました。セバスティアンは現在ハンブルクを代表するNDRエルフィプフィルハーモニー管弦楽団及びバイロイト祝祭管弦楽団に所属しゲーデ弦楽四重奏団のチェロを担当しています。
私は1991年から1994年までベルリン芸術大学で教鞭をとった後、1994年から2000年までウィーン・フィルハーモニー管弦楽団及びウィーン国立歌劇場管弦楽団でコンサートマスターを務めました。そして2000年以降はニュルンベルク音楽大学ヴァイオリン科教授の任にあります。
私が初めて日本を訪れたのは1994年のウィーン国立歌劇場公演の時でした。この時は東京に1か月ほど滞在して巨匠カルロス・クライバーの伝説の名演「バラの騎士」を含む5作品で演奏できたことは本当に幸運でした。翌1995年にはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団と来日し、私はすっかり日本が好きになってしまいました。
また現在はソリストとしての活動のかたわらベルリン・バロック・ゾリステンの音楽監督を務め、日本のNPOフレンドシップ・コンサートと協力してゲーデ弦楽四重奏団、ウィーン・フーゴ・ヴォルフ三重奏団及びウィーン・ピアノ五重奏団などの室内楽活動を活発に行っています。
私は病院や学校などを訪問し演奏するボランティア活動にも力を入れてきました。あの1995年に惹起した阪神淡路大震災では10年間にわたり神戸を訪れ演奏を続け、2011年の東日本大震災以降はボランティアとして毎年東北の被災地で演奏活動をしてきました。
現在私はニュルンベルク郊外の静かな田舎町に住み、ピアニストの妻(スイシュー)と次男フローリアン(17歳)と暮らしています。フローリアンはチェロ奏者を目指しています。長男のフィリップは独立してニュルンベルク市内に住んでいます。私にとって人生で最も大切なものは家庭で、二番目が音楽です。
私は父と母、そして兄と弟の5人家族で、北ドイツ港湾都市ハンブルクで育ちました。市内で数回転居をしました。最初はアパートメントに暮らし後に小さな庭のある家に住みました。週末や休暇には祖父と両親が持っていた郊外の農家で過ごしました。そこには多くの動物がいて毎日近所の子供たちと遊んでいました。とても幸せな子供時代でした。
父はディートリッヒといいドイツテレコム(Deutsche Telekomドイツ電信電話会社)に勤務していました。母はヘルガで英語教師として社会人に英語を教えていました。
長男のトーマスは11歳から英国に留学し、ヴィオラを演奏します。ハンブルク近郊で内科医をしていて3人の子供がいます。弟のセバスティアンはチェロを学び現在ハンブルクのNDRエルプフィルハーモニー管弦楽団の団員です。トーマスと同じく3人の子供がいます。
私は近所の子供たちや兄弟たちと1日の大半を外で遊んで過ごす「活発」な少年でした。とても野性的でインディアンごっこが大好きで、インディアンたちの死を恐れない勇敢さに感動していました。
好きだったことはサッカー、ボート漕ぎ、絵を描くこと、何か作ること、そして自然の中にいることです。食べ物は典型的なドイツの子供と同じく「ソーセージ」でした。
両親から子ウサギをプレゼントされたことです。
初めて自分用のフルサイズのヴァイオリンを手にしたときです。その音はびっくりするほど大きく、子供用よりずっと重く感じました。とても誇りに思った記憶があります。
マリアンヌ・ペーターセンです。彼女はヴァイオリン初学者にとって素晴らしい先生で、生徒のやる気を引き出してくれました。後にハンブルクに住んでいた高名なロシア人のミカエル・ゴールドシュタイン教授に師事しました。彼はとても温かな人物で、私とバッハの「2つのヴァイオリンのための協奏曲 ニ短調 BWV1043」を演奏してくれました。
体育と美術、特に絵画です。
化学です。また後年、数学も難しいと感じるようになりました。
時間があればサッカーをしていました。
もう以前のように敏捷には動けません。ですからゆっくりとしたジョギングを楽しんでいます。
家族と家庭です。
日本で食べるお刺身とお鮨です。特に中トロとウニが好物です。そして鰻も大好物です。
1991年です。彼女の優しい性格と笑顔が大好きでした。
1992年のことで、まだ2人とも学生でした。